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岡山県の著名人:【スポーツ選手】人見絹江

岡山県出身のスポーツ選手は大勢いますが、最初に取り上げるにふさわしいのは日本人初の女性メダリスト・『人見絹江(ひとみ きぬえ)』さんでしょう。

人見絹江さんは1907年(明治40年)1月1日に岡山県御津郡福浜村福成(現:岡山市南区福成)の農家で生まれました。
合格率25%という難関中の難関校「岡山高等女学院」入学し、在学中はテニス選手として活躍していた彼女ですが、全校をあげて「いかなる競技においても覇者になるべし」という目標が掲げられたことにより、彼女も岡山県の中等学校競技会に出場。そして初めて競技会に出場した絹江さんはなんと走り幅跳び4m67cmという当時の日本女子最高記録をレコード(非公認)してしまったんですね。
これがキッカケとなり、その後は陸上競技に力を注ぐことになったのだそうです。

女学校を卒業後は「二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)」に入学、数々の大会に出場して三段跳びややり投げで活躍。卒業後は体操の実技講師として台湾を巡回後に帰国し二階堂体操塾の研修生となって、その後も50m走や三段跳び(当時世界記録をマーク!)で活躍。
そして女学校時代から才能を見せていた文学的資質を活かして毎日新聞社に入社。
運動課に配属された彼女はその後も数々の大会の多種目で優勝を重ね、日本新記録も塗り替えていきます。

1926年(大正15年)の8月に行われた第2回国際女子競技大会に日本人としてただ一人出場し、ここでも世界を相手に走り幅跳びで優勝するなど好成績を出して、国際女子スポーツ連盟のミリア会長より名誉賞を授与されています。

その後も数々の大会で優勝し続けた彼女は、いよいよ1928年(昭和3年)アムステルダムオリンピックに出場。
この時、日本から40人の選手が出場したのですが、女子では当時21歳だった人見絹江さんただ一人。
女子の個人種目全てにエントリーはしていた彼女ですが100走の一本に狙いを絞っていたものの、準決勝で無念の4着。
「100mに負けました!といって日本の地を踏める身か!踏むような人間か!何物かをもってこの恥をそそぎ責任を果たさなければならない。あとに残されたものは800mでありました」
「もちろん800mを走るだけの力は持っていない。出場するだけ恥になる。しかし私はもう勝つ負けるは問題ではなかった!走るだけ走ってみよう。800m走り抜けたらどうせ倒れてしまうに決まっているが、倒れるまでやってみようと決心した」
(自伝『スパイクの跡』から)

このような悲壮な心情で出場した800mは8位で予選通過。
そして迎えた決勝、ドイツ・スウェーデンの選手に続いて3位を走行していた彼女の足の疲労がピークになったとき、「足が疲れたら手を振ることを忘れるな。手さえ振れれば足はそれについてくる。」という監督の言葉を想い出し、必死に手を振ることを心掛け2位に浮上、その後は記憶を無くすほどの苦闘の末に15mあった1位との差を2mにまで縮めてゴールイン!そのタイムはそれまでの世界記録を塗り替えるものでした。
ゴール後に意識を失くしていた彼女、意識が戻った時に見たものは日の丸が掲揚されている光景。100m走を4位で敗退した時からの彼女の気持ちを考えますと、どれほどの喜びか想像に難くありませんね。

このドラマチックな日本女子初の偉業を成した彼女ですが、当時の日本では女性のスポーツ選手への偏見は強く、彼女がオリンピックで結果を出すまでは「日本女性が人前で太ももをさらすなど有ってはならん」などと言われることも多かったのですが、それに対しての彼女の言葉にしびれます。
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない。」

彼女は24歳と言う若さながら病に倒れて病床で生涯を終えましたが、奇しくも命日はオリンピックで銀メダルを掴み取った日と同じ8月2日でした。
その後の日本女子の陸上競技では1992年(平成4年)、バルセロナオリンピックで同じく岡山県出身の有森裕子選手が800mで銀メダルを得るまでの64年間、五輪メダル受賞者が出ませんでした。
そしてこの有森選手が銀メダルを手にした日も8月2日です。

「岡山県出身の選手」「オリンピック800m走で銀メダル」「8月2日」、何か因縁めいたものを感じてしまいますね。

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著名人 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2012/04/12 23:49
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