岡山県の著名人:【学者】宇田川榕菴

1798年大垣藩(現・岐阜県大垣市)医江沢養樹の長男として生まれ、13歳で津山藩医・蘭学の名門“宇田川家”の養子となりました。
養父・宇田川玄真から多くを学び1817年に津山藩医となりましたが、語学力と学識を買われて幕府の天文方蕃書和解御用の翻訳員となり、ショメール百科事典の翻訳書「厚生新編(こうせいしんぺん)」の作成に従事するために江戸に居を移しています。
1822年「菩多尼訶経(ぼたにかきょう)」、1835年「理学入門 植学啓原(りがくにゅうもん そくがくけいげん)」を出版し、西洋の植物学を始めて日本に持ち込む一方で、有名な蘭学者だった養父・宇田川玄真との共著でふたつの薬学書を出しています。
また1837年から没後の1847年にかけて「舎密開宗(せいみかいそう)」を著しているが、これは日本初の近代化学を紹介するもので、他のオランダの書物から得た知識や自らが実験で得た結果からの考察なども追記されており、単なるオランダ語の翻訳に留まっていないのがすごいですね。
前述の近代化学を紹介した「理学入門 植学啓原」を翻訳するにあたり、当時の日本には存在していなかった学術用語が多くあったため、榕菴は新たな造語を作ることになりました。
「酸素」「水素」「炭素」などといった元素名、「酸化」「溶解」「分解」などの化学用語、「細胞」「花粉」「属」などの生物用語を数多く作り出し、それは現在もそのまま使用されています。
榕菴が“近代科学の生みの親”と言われる由縁ですね。
榕菴は学術一辺倒の人生を送ったわけではなく、娯楽も愉しんでいたようです。
著書に繊細に描かれている挿絵は榕菴自ら手掛けたものなのですが、その才能を活かして現在の物とほとんど変わらないオランダカルタ=トランプや西洋スゴロクを手作りしてたりもします。
※この榕菴のトランプの複製品は津山洋学資料館で購入することが出来ますよ。
また、当時日本人にはほとんどなじみのなかったコーヒーを好んでよく飲んでいたようです。
彼がコーヒーと出会ったのは、1814年に養父・玄真に連れられて江戸参府のオランダ商館長ヅーフを訪問した時のようで、その後1816年にコーヒーについて詳細に記した「哥非乙説(こひいせつ)」を書いています。
コーヒーの当て字である、よく喫茶店で観かける『珈琲』も榕菴の作り出した当て字ですが、実はこの他にも「哥兮」「骨喜」「架非」などの当て字を考案しています。
当時、オランダ人によって日本に持ち込まれたコーヒーは「コーヒーカン」というステンレス製のコーヒーポットを使って入れられていました。
この道具も「哥非乙説」に詳細に記されているのですが、このコーヒーカンを再現して使用する豆も当時日本に持ち込まれていたインドネシア産のものを使用していれられた“榕菴珈琲”を津山市田町の城西浪漫館で味わうことが出来ます♪
城西浪漫館では、この榕菴珈琲に使用している珈琲豆だけの販売もされていますので、自宅でも江戸後期の味を楽しむことが出来ますよ。
著書に繊細に描かれている挿絵は榕菴自ら手掛けたものなのですが、その才能を活かして現在の物とほとんど変わらないオランダカルタ=トランプや西洋スゴロクを手作りしてたりもします。
※この榕菴のトランプの複製品は津山洋学資料館で購入することが出来ますよ。

彼がコーヒーと出会ったのは、1814年に養父・玄真に連れられて江戸参府のオランダ商館長ヅーフを訪問した時のようで、その後1816年にコーヒーについて詳細に記した「哥非乙説(こひいせつ)」を書いています。
コーヒーの当て字である、よく喫茶店で観かける『珈琲』も榕菴の作り出した当て字ですが、実はこの他にも「哥兮」「骨喜」「架非」などの当て字を考案しています。
当時、オランダ人によって日本に持ち込まれたコーヒーは「コーヒーカン」というステンレス製のコーヒーポットを使って入れられていました。
この道具も「哥非乙説」に詳細に記されているのですが、このコーヒーカンを再現して使用する豆も当時日本に持ち込まれていたインドネシア産のものを使用していれられた“榕菴珈琲”を津山市田町の城西浪漫館で味わうことが出来ます♪
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