岡山県の地名アレコレ【高梁市】
高梁市の読みづらい地名、読み間違いそうな地名などを紹介しましょう。
現在の高梁市は、平成の大合併(2004年)で、旧高梁市と上房郡有漢町・川上郡成羽町・備中町・川上町の1市4町が合併して出来たのですが、それ以前より合併や編入を繰り返し行われてきています。そのため、○○町××といった長い地名が多いのが特徴です。
また、備中高梁城があることから、城下町に良く見られる地名も多いようです。
現在の高梁市は、平成の大合併(2004年)で、旧高梁市と上房郡有漢町・川上郡成羽町・備中町・川上町の1市4町が合併して出来たのですが、それ以前より合併や編入を繰り返し行われてきています。そのため、○○町××といった長い地名が多いのが特徴です。
また、備中高梁城があることから、城下町に良く見られる地名も多いようです。
読みづらい・間違いやすい地名
間之町(あいのまち) “あいだ”とか“ま”と読んでしまいがちです
有漢町有漢(うかんちょううかん) “鵜飼”が訛ったという説があります
内山下(うちさんげ) 津山市にも“山下=さんげ”と読む地名があります
落合町福地(おちあいちょうしろち) 普通“ふくち”って読んじゃいます
落合町近似(おちあいちょうちかのり) なんか戦国武将みたいです
川上町高山(かわかみちょうこうやま) “たかやま”ではありません
川上町臘数(かわかみちょうしわす) 読めも書けもしませぬ…(TT)
高倉町大瀬八長(たかくらちょうおおせおなが) “おなが”読めないし!長いし!
中間町(ちゅうげんまち) お中元を待ってるわけではありません
中井町津々(なかいちょうつつ) “つづ”と濁りません
『高梁』の由来は?
「高梁」という地名の由来には諸説あるようです。
・この地を流れる“高梁川(松山川)”からという説。
・元々は「高橋」とよばれていたが、高橋九郎左衛門が城主となった際に、城主と地名が同じでは望ましくないので「松山」へ改めたものの、時代が明治になって四国の松山と紛らわしいので元の「高橋」に戻すことになり、“橋”の字に雅字の“梁”を当てて高梁とした説。
・松山城のある地点が、吉備高原の大地の端=“高”+“端”となり、高梁となった説
・吉備高原云々は関係なく単に“高く切り立った端”からという説
個人的には二番目の説は『現在の“高梁”になった由来は判ったが、そもそもの「高橋」の由来は?』と聞きたくなるので却下したいと思います(笑)
地名に使われる漢字は時代の流れと共に改変されることが多く、また、当て字で本来の意味と漢字が対応していない場合も少なくありません。
確かな記録が残されていない限り、由来の意味、語源、来歴がわからなくなってしまう例のひとつではないでしょうか?
忍者が活躍していた?
高梁市の中心部は備中松山城の城下町であり、現在も城下町を想わせる「寺町」「鉄砲町」「本町」「鍛冶町」などの地名が残っていますが、その城下町にある地名に「伊賀町(いがまち)」「甲賀町(こうがまち)」という地名があります。
普通、伊賀ときて甲賀とくれば忍者を連想しますよね。
城下町ということで、それぞれの町に伊賀忍者・甲賀忍者を住まわせていたのかもしれませんが、仮にも“忍びの者”の住まうところを町名にするなどと大っぴらにしちゃっても良かったんでしょうか?
そう思ってネットで調べてみたところ、確かに備中松山城には伊賀の者がいたのは確かなようですし、『たかはしお城まつり』では伊賀忍者黒党ショーや子ども忍者衣装の貸し出しをしていることから伊賀忍者がいたのは間違いないようです。
ただ、活躍の場の多かった江戸時代以前や江戸初期に比べて、江戸後半には単なる門番などの雑役がほとんどで、三人扶持ぐらいの薄給だったようで忍者の時代は終わっていたようです。
甲賀についてはたいした情報が見つかりませんでしたが、おそらく伊賀と同じく甲賀忍者の末裔がいたのではないでしょうか?
間之町(あいのまち) “あいだ”とか“ま”と読んでしまいがちです
有漢町有漢(うかんちょううかん) “鵜飼”が訛ったという説があります
内山下(うちさんげ) 津山市にも“山下=さんげ”と読む地名があります
落合町福地(おちあいちょうしろち) 普通“ふくち”って読んじゃいます
落合町近似(おちあいちょうちかのり) なんか戦国武将みたいです
川上町高山(かわかみちょうこうやま) “たかやま”ではありません
川上町臘数(かわかみちょうしわす) 読めも書けもしませぬ…(TT)
高倉町大瀬八長(たかくらちょうおおせおなが) “おなが”読めないし!長いし!
中間町(ちゅうげんまち) お中元を待ってるわけではありません
中井町津々(なかいちょうつつ) “つづ”と濁りません
『高梁』の由来は?
「高梁」という地名の由来には諸説あるようです。
・この地を流れる“高梁川(松山川)”からという説。
・元々は「高橋」とよばれていたが、高橋九郎左衛門が城主となった際に、城主と地名が同じでは望ましくないので「松山」へ改めたものの、時代が明治になって四国の松山と紛らわしいので元の「高橋」に戻すことになり、“橋”の字に雅字の“梁”を当てて高梁とした説。
・松山城のある地点が、吉備高原の大地の端=“高”+“端”となり、高梁となった説
・吉備高原云々は関係なく単に“高く切り立った端”からという説
個人的には二番目の説は『現在の“高梁”になった由来は判ったが、そもそもの「高橋」の由来は?』と聞きたくなるので却下したいと思います(笑)
地名に使われる漢字は時代の流れと共に改変されることが多く、また、当て字で本来の意味と漢字が対応していない場合も少なくありません。
確かな記録が残されていない限り、由来の意味、語源、来歴がわからなくなってしまう例のひとつではないでしょうか?
忍者が活躍していた?
高梁市の中心部は備中松山城の城下町であり、現在も城下町を想わせる「寺町」「鉄砲町」「本町」「鍛冶町」などの地名が残っていますが、その城下町にある地名に「伊賀町(いがまち)」「甲賀町(こうがまち)」という地名があります。
普通、伊賀ときて甲賀とくれば忍者を連想しますよね。
城下町ということで、それぞれの町に伊賀忍者・甲賀忍者を住まわせていたのかもしれませんが、仮にも“忍びの者”の住まうところを町名にするなどと大っぴらにしちゃっても良かったんでしょうか?
そう思ってネットで調べてみたところ、確かに備中松山城には伊賀の者がいたのは確かなようですし、『たかはしお城まつり』では伊賀忍者黒党ショーや子ども忍者衣装の貸し出しをしていることから伊賀忍者がいたのは間違いないようです。
ただ、活躍の場の多かった江戸時代以前や江戸初期に比べて、江戸後半には単なる門番などの雑役がほとんどで、三人扶持ぐらいの薄給だったようで忍者の時代は終わっていたようです。
甲賀についてはたいした情報が見つかりませんでしたが、おそらく伊賀と同じく甲賀忍者の末裔がいたのではないでしょうか?
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