岡山の著名人:大山康晴【将棋棋士】
元日本将棋連盟会長であり、将棋界初の文化功労者顕彰された故・大山康晴(おおやまやすはる)さんは岡山県倉敷市出身の将棋棋士です。
岡山県の地方ローカル局:山陽放送のみで流されていた、津山市の多胡本家酒造場 の「加茂五葉(かもいつは)」のテレビCMに出演。
『酒は断然…加茂五葉ですね…。…加茂五葉のご用命は…岡山河内屋へ…どうぞ。』という、なんとも独特な間のしゃべり方が印象に残っています。
(昭和40年代頃に流されていたCMなので岡山県在住でも若い世代ではご存知ない方が多いでしょうね。)
1923年(大正12年)、岡山県浅口郡河内町(現・倉敷市)に生まれた大山さんは5歳で将棋を覚え、12歳で大阪の木見金治郎九段に入門。
順調に昇段していくも師匠である木見金治郎さんの影響で中将棋(ちゅうしょうぎ:使用する駒の数が多い将棋)や囲碁にハマってしまい、昇段出来なくなってしまうこともありました。
しかしご本人曰く、中将棋から駒の連携を重視する用心深く粘りのある棋風が生まれたのだそうです。
17歳で四段に、20歳で六段にするなどその才能をメキメキと発揮するも、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には招集を受けて南九州に配属されました。
ところが運良く上官が将棋好きだったことが幸いし、ほとんど危険な目に合うことない恵まれた軍隊生活をすごされたようです。
終戦後、棋士に戻った彼はその才能を発揮、連覇を重ねて1948年(昭和23年)には、第7期名人戦に挑むまでになるも敗退。A級八段にまで昇段しています。
1952年(昭和27年)、第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦し4勝1敗で勝利、29歳の若さで実力制3人目の名人位に就きました。
それから5連覇を達成し、1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得て、名人・王将の二冠を三年間保持されています。
岡山県の地方ローカル局:山陽放送のみで流されていた、津山市の多胡本家酒造場 の「加茂五葉(かもいつは)」のテレビCMに出演。
『酒は断然…加茂五葉ですね…。…加茂五葉のご用命は…岡山河内屋へ…どうぞ。』という、なんとも独特な間のしゃべり方が印象に残っています。
(昭和40年代頃に流されていたCMなので岡山県在住でも若い世代ではご存知ない方が多いでしょうね。)
1923年(大正12年)、岡山県浅口郡河内町(現・倉敷市)に生まれた大山さんは5歳で将棋を覚え、12歳で大阪の木見金治郎九段に入門。
順調に昇段していくも師匠である木見金治郎さんの影響で中将棋(ちゅうしょうぎ:使用する駒の数が多い将棋)や囲碁にハマってしまい、昇段出来なくなってしまうこともありました。
しかしご本人曰く、中将棋から駒の連携を重視する用心深く粘りのある棋風が生まれたのだそうです。
17歳で四段に、20歳で六段にするなどその才能をメキメキと発揮するも、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には招集を受けて南九州に配属されました。
ところが運良く上官が将棋好きだったことが幸いし、ほとんど危険な目に合うことない恵まれた軍隊生活をすごされたようです。
終戦後、棋士に戻った彼はその才能を発揮、連覇を重ねて1948年(昭和23年)には、第7期名人戦に挑むまでになるも敗退。A級八段にまで昇段しています。
1952年(昭和27年)、第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦し4勝1敗で勝利、29歳の若さで実力制3人目の名人位に就きました。
それから5連覇を達成し、1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得て、名人・王将の二冠を三年間保持されています。
彼の終生のライバルである升田幸三さんに1955年(昭和30年)度に王将位を、翌1956年(昭和31年)の第16期名人戦にて名人位をも奪取されてしまい無冠となってしまうも、その翌年1957年(昭和32年)で王将位を奪還。1958年(昭和33年)には九段戦を奪取、1959年(昭和34年)の名人の座を取り戻すことに成功。
升田さんに次ぐ二人目の三冠王(全冠独占)となったのでした。
その後は1962年(昭和37年)に創設された棋聖戦にて棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たすなど、怒涛の快進撃は留まることがありませんでした。
1973年(昭和48年)、50歳の彼は16年ぶりに無冠になってしまいましたが、それまでの素晴らしい功績が認められて特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることを認められ、更に1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位しています。
正面から実力で押す正攻法の棋風を貫いた棋風が持ち味の彼は小細工やヒッカケ等を使う打ち方を軽蔑して、それは彼の名言「平凡は妙手に勝る」「名人戦のような大きな勝負で変則作戦を用いるのは気合の充実を欠いているから」にも表れていますね。
大山さんの名言と言えば「助からないと思っても助かっている」があります。
これはもうダメだと思うような局面においても、落ち着いてよく見渡せば助かる手筋が見えてくることが多いので、最後まで諦めずに指すことが大事という意味で、これは将棋に限らず人生にも言えることですよね。
1992年7月26日 、A級現役のまま69歳で逝去されるまでに残された生涯成績 は1433勝781敗 勝率0.647。
晩年はガンを患い闘病しながらも現役で戦い続け、「A級から落ちたら引退する」という発言をするも最後まで現役を貫きとおされています。
将棋界初の文化功労者に顕彰されるなど数々の栄誉ある表彰・顕彰をされており、また数々のタイトル戦最年長記録歴代一位も保持されている大山さんは、将棋界の鉄人にして神のような存在といえるでしょう。
升田さんに次ぐ二人目の三冠王(全冠独占)となったのでした。
その後は1962年(昭和37年)に創設された棋聖戦にて棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たすなど、怒涛の快進撃は留まることがありませんでした。
1973年(昭和48年)、50歳の彼は16年ぶりに無冠になってしまいましたが、それまでの素晴らしい功績が認められて特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることを認められ、更に1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位しています。
正面から実力で押す正攻法の棋風を貫いた棋風が持ち味の彼は小細工やヒッカケ等を使う打ち方を軽蔑して、それは彼の名言「平凡は妙手に勝る」「名人戦のような大きな勝負で変則作戦を用いるのは気合の充実を欠いているから」にも表れていますね。
大山さんの名言と言えば「助からないと思っても助かっている」があります。
これはもうダメだと思うような局面においても、落ち着いてよく見渡せば助かる手筋が見えてくることが多いので、最後まで諦めずに指すことが大事という意味で、これは将棋に限らず人生にも言えることですよね。
1992年7月26日 、A級現役のまま69歳で逝去されるまでに残された生涯成績 は1433勝781敗 勝率0.647。
晩年はガンを患い闘病しながらも現役で戦い続け、「A級から落ちたら引退する」という発言をするも最後まで現役を貫きとおされています。
将棋界初の文化功労者に顕彰されるなど数々の栄誉ある表彰・顕彰をされており、また数々のタイトル戦最年長記録歴代一位も保持されている大山さんは、将棋界の鉄人にして神のような存在といえるでしょう。
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